ふらんす語教室パレコールのぶろぐ

日常をおフランス風にちょこっとアレンジすることで、ワイワイ遊んでしまおう!

母に対して下から目線の是枝『真実』と上から目線のドラン『たかが世界の終わり』

ドヌーヴ、ビノシュ、イーサンホーク、是枝?この組み合わせは、私の中では今イチ、ピンと来ない。映画『真実』の宣伝を見ると、それってグザビエ・ドランの『たかが世界の終わり』日本の監督バージョン?家族不和ものであれ以上の傑作がある?という疑問を抱いて、映画館に足を運んだ。

 

結果、予告編間違ってるだろう……。というのが感想。

 

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家族不和ものだと思っていたが、私にとっては、ドヌーブはどちらかというと普通にコメディを演じているときの「美しさ」を笑いに変えられるドヌーブであるし(劇中劇で一瞬だけ本物系になるが)、ビノシュも葛藤しているというよりは献身的であるし、まあ、私の見方がヘボいのかもしれないが、周りの気のいい男性人も孫娘も面白ドヌーブ魔女のパワーにおよばないといった感じでかわいらしく、いくらビノシュが激しい演技をしてドヌーブを罵っても母娘の葛藤ものにどうしても見えなかった。まあ、なんというかシニカルもののハッピーコメディ。

フランス映画ファンというよりは、イーサン・ホークファンに受けるタイプの映画なのかな。

個人的には、グザビエ・ドランの息苦しさの方が真実味があるというか、子供の反抗と親のひるみを描いた作品としてみるならば、圧倒的にドランの作品の方が母親の視点で見ると心を揺さぶられる。ナタリー・バイにはひるみがあったが、ドヌーブはひるむ必要がない。(その点、母親役に圧倒的存在のドヌーブを持ってくることはキャスティング的には成功している。)要は、思うにドランの作品と比べると是枝作品の方が圧倒的に母親に優しいし、母親の描き方が魅力的。子供を捨てるダメ母親であろうとあくまでも魅力的。お母さんが大好きな少年の描き方。

そして、またまた母親目線で言うならば、彼の描く子どもたちの反抗はちっとも怖くない。その意味では、年齢は逆だが是枝氏の方が少年目線でドランの方が母親に対して圧倒的上から目線で映画を作っているように感じられる。

 

という意味で、『真実』の予告編、家族不和もののくくりはよくない。このパターンで攻めると、ドランに対して勝ち目はない。

 

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何度でも会いたい人とダメな人

最近、「恋愛」をテーマにして考える必要があって、片っ端から恋愛映画を見ているのだけど、最大のヒットは Before Sunrise。『恋人までの距離』という邦題が恥ずかしすぎてこれまで見ていなかったが、リンクレイターの3部作をイッキ見。

 

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さて、これを見て何を思ったかというと、楽しい ! < 面倒くさい ! となるのが老化であると考えていたが、実は実年齢とは関係なく、この年になっても自分の中で 楽しい ! >面倒くさい ! の部分は結構残っているということ、そしてそれはものすごく重要案件であるということの再発見。おそらく、人間を怠惰から、疲労から、ストレスから、育児放棄から、不登校から、はたまたセックスレスから守ってくれるものというのは、この「楽しい」という感覚しか存在しないのではないか。映画の二人は、24時間喋りっぱなし、歩きっぱなし、笑いっぱなし。それだけ。そして、見ていて全く疲れない。

 

仕事、友人や家族とのつきあいで、ここ数日、異様に疲れるパターンと、全く疲れないパターンを経験した。前者は、間違いなく体力的には楽だったにもかかわらず「楽しい、ワクワク、流行りのトキメキ」が半端なく足りなかったせいで、結果的に異様な疲労と体調不良がのこった。

 

そして、本日、ぜ〜んぜん疲れない方の代表的存在である友人が、「いかにプラスチックゴミの削減にとりくむか?」という講演を多くの人の前でするのを聞いていた。突然、彼は言った。「楽しんでやれ〜」と。なぜか、この部分だけ音量倍増で耳に飛び込んできた。どれくらいの人が正確なメッセージを受け取ったかはわからないが、彼は、自分の得意分野を通してものすごく本質的なことをのびのびと語っていた。

 

そう、私の疲れない愛する人たちはみんな、そしてあえていうが、私自身も、この「本質的のびのび」ができる。(面白いことに、その子どもたちもそう。)入り口が恋愛だろうがゴミ問題だろうが、教育問題だろうが、介護問題だろうが、宗教問題だろうが、金儲けだろうが、アプローチが違うだけで、いきつくところは同じ。生きるとは「損得、善悪」ではない。この部分が共通している人と時を過ごすことは、老若男女問わず全く疲れない。そうでない人は、秒でわかる。私の動物としての嗅覚は、この点においてなかなか鋭い。

男目線?女目線?「全裸監督」と「軽い男じゃないのよ」

リアルタイムで村西とおるを知っており、当時から彼に嫌悪感しかなかったので、Netflixで全く見る気のなかった「全裸監督」。あまりにも話題なので、昨日イッキ見をした。俳優陣が異様に上手いので、最後まで見られる。ただ一日たって、見終わったあとの感じ、本でいうと読後感があまりよろしくない。こういう感覚は、珍しいので分析してみることにした。

 

Netflixオリジナル作品を私はよく見る方だと思うけれど、日本のものはあまりおもしろいと思ったことがない。あたった作品も悪いのかもしれないし、たいしてみていないからかもしれないが、どうも地上波ドラマ+男目線エロ?の感じが否めない。素晴らしかったのはアニメの「DEVILMAN」くらい。なので、「全裸監督」を見ても、「ああ〜、また男目線の同じパターンか……。」というのが、第一印象だったのでこの記事を見つけて驚いた。

 

toyokeizai.netなんと、副題が、私が覚えた感想とは真逆の「男性目線で描かれていない世界基準作品」というもの。

 

なるほど。確かに「全裸監督」においてAV女優・黒木香がデビューする「SMぽいの好き」の撮影シーンは、「性に肯定的、積極的である自分を肯定する受け身でない自立した精神の女性像」を見事に描いている。そして、もし女性に対してAVマーケティングを仕掛けるならば、この路線なのか?とも思う。でも、それってなんというか、こういう感想を抱くのはとても昭和的な発想なのでは?と感じた。

 

同じNetflixで見られるフランス映画に「Je ne suis pas un homme facile(軽い男じゃないのよ)」という、性的役割の男女逆転が見られる秀逸なコメディがある。予想通りというか、監督は女性、Eléonore Pourriat。この作品なんかは、うちの20歳の息子が感激するくらいだから、風潮としては、男が見ても女が見ても、こちらが受ける時代であるのは間違いない。というか、こちらがまあ現在の世界の常識で、女性が性的に主導権を握るなどというのも、おそらく現在では特に新しい発想ではない。そして、この作品の読後感ならぬ視聴後感は清々しい。

 

そういうことを考えていると、この時代に「全裸監督」を出してくるというのが、Netflixという世界的な場で、日本がエンタメで全世界に存在感をアピールするための新しく危うい挑戦なのかもしれないとひらめいた。

 

「全裸監督」中、ストーリー的には最も面白くない6話「誇大妄想」で、外国人のAV女優が撮影後に言い放つ「日本のポルノ業界はかなり遅れている。最低の現場だ。あの作品はマスターベーション。あれじゃ誰も抜けない。」という台詞がある。そうか。これが、キモだ!これまでの、地上波+エロ追加作品のつまらないドラマと違って、この作品はその時代錯誤性をバッチリ引き受けているのだと。そして、これこそが「全裸監督」の最大の魅力であると。

 

例えるならば、「脱プラスチック」の時代に「ポイ捨て」、「脱タバコ」の時代に「副流煙バラマキ」で、「全裸監督」は現在主流の素敵なイデオロギーには「従わない」。

 

ある意味、こういう態度こそが理性に反する究極のエロであり、「全裸監督」の主題にふさわしい。こんなことを言うと時代錯誤だろうが、私にとっての男目線というのは、この「意味不明のムチャクチャ」を意味するもの。このムチャクチャをチャーミングと感じるか、キモいと感じるか。実世界では鼻つまみであろうが、エンタメの世界ではこのめちゃくちゃは「あり」である。つまり先程の記事になぞらえていうと、「息絶え絶えの男性目線的エロが玉砕を覚悟で描く、Me tooの時代には絶対世界基準作品にはならないエンタメ作品」という方が正しい。

 

ということで、この作品は、今を生きる若い子たちに感想を聞いてみたい。なぜ、この作品がここまで話題になっているのか?見ているのは、どいう世代の人たちなのか?そして、世界での反応は?とかとか、いろんな意味で興味がある。

そして、できれば、その答えが、これ以上のものであることを祈る。

「なぜ見るのか?」「村西のパンツが笑えるから」。

サヴィニャック VS マン・レイ

大人気のサヴィニャック展を見に、ジャンボタクシー借りきって広島県立美術館へ。

カラフルで文句なしに可愛らしいサヴィニャック展の感想はみなさんに譲るとして、私が密かに狂喜乱舞したのは、サヴィニャック展の入場券でタダで見ることができたマン・レイデュシャンの作品群。こんな場所で出会えるとは!

L.H.O.O.Q、モンパルナスのキキ、アングルのヴィオロン、そしてローズセラヴィまで!

おまけに小さな画面で、ルネ・クレールの『幕間』の一部がコッソリ上映されていた。シャンゼリゼを見下ろしながらチェスをするマン・レイデュシャンがカッコいい!数分前には、サヴィニャック展でサヴィニャックのチェスする姿が上映されていたので、ついつい比べてしまった……。

 

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サヴィニャック、かわいい!と思っていたのだけど、個人的にはカッコよさで上の二人が圧勝でした。

新年のご挨拶(私の生徒さん用)

皆様、明けましておめでとうございます!普段はふざけているので、真面目に新年のご挨拶をさせていただきます。

夏目漱石大先生(すでにふざけているっぽい……)の『草枕』の冒頭に以下のような文がございます。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」

私は、フランス語の授業を通して、いろいろと思い通りにならないことから逃れられないみなさんが、この地で、まるで「詩」や「絵」を作るように、楽しく、自由に、時に怒り、時に落ち込み、少し頑張って宿題をやってみたり、また大いにくつろいでサボりまくりと自分に忠実に生きていらっしゃるのを見てきました。そして、どの姿もなかなかカッコいい!

新年の冒頭にあたり、いつも私を楽しませてくださっている皆様に、称賛と感謝の念をおくらせていただきます。2019年も楽しい年にしましょう。

Bonne Année !  Mikiko OCHI

社会の中でのアートの役割

私は「フランス語」という仕事柄、周りに絵や音楽といったアート系の方が多い。アートで暮らしを立てている方も、他のお仕事と両立している方も、趣味でアートを楽しんでいる方も。そしてそんな方たちの2世は、ほとんどこれまたアート関係の卵。私は、教育もアートだと思っているので、我が家も例外ではない。

世間一般では、アートで暮らしていくことはそれはそれは難しいと考えられている。そして金銭のことを考えると恵まれないアーティストの卵たちの顔は暗くなる。だがしかし!、アートをきちんと社会の中に位置づけることができれば、私はアートで一人の人間が食っていくことはそれほど難しくないと考えている。そして、アーティストが食べていけない社会の方がおかしいのだから、アーティストは意地でも食っていけるよう頭を使って、クリエイティビティをばらまかなければならない。それはマーケティングうんぬんではなく、もっと根本的なところでアートの力を見直すことからはじまるように思う。

ということで、この記事、この学校が素晴らしい。

www.cinra.net「偉大な芸術を作るためには世界に目を向けなければならないと思う。人間は世界から孤立して生きていけるはずがないからね。アーティストは自分たちのクリエイティビティを世界にシェアすべきなんだ。何らかの困難に直面して弱ってしまった人たちに、クリエイティブな方法で手を差し伸べることができる、それがアーティストだからね。」

卵も親も頑張れ!

社会的格差と健康格差の笑えない相関関係

フランスの「老人学」、ちまちま仕事の合間をぬって進めていますが、今お勉強している箇所は「社会的格差がいかに健康格差を生んでいるか」というのがテーマ。

健康格差の原因とみなされている社会的要素(収入、地理的、文化度、食べ物、依存や引きこもりなどの)を細かく分析しているのだけど、これがもうあらゆるデータをこれでもか!これでもか!という感じで、「貧乏+老人の不幸」を押し付けてくる。

例えば、食べ物を例にとると、

1. 普通の老人は現役時代より収入が減ることによって「社会的弱者」となる。食費が一番削りやすいので食費を抑える→栄養のバランスが悪くなる→栄養不足→様々な病気になる(体も心も)。栄養をたくさん含む新鮮な食物は往々にして高価であるため、金持ちより栄養摂取が悪くなる。(かつて労働者だった人たちの平均寿命と会社役員であった人たちとの平均寿命の差をデータとして見せつけられる。)ちなみに、貧困層独身高齢女性の一日の食費は3〜4€らしい。

2. 現役世代と比べると、肉体的に栄養の吸収が悪くなる、歯などの機能が衰えたり、近親者の死や病気、自分の死の問題などで鬱的になり食欲減退、肉体的にきつくなるので料理をしなくなる、重い荷物を下げて買い物から帰るなどというのが困難になるので、配送などに頼るしかなくなり新鮮な食べ物へのアクセスができづらくなる。→栄養のバランスが悪くなる。(1と同じ循環に陥る。)

暗い。とても暗い。そして、この暗〜い部分の一部が、お手伝いさんを雇ったりとお金を出すことによって軽減される可能性があるのが楽しくない。ならば、お金のない人は、人格を磨き、金銭を払わなくても新鮮な野菜をいただいたり、みんながワイワイお手伝いさんみたいに集まってくれる環境を作っておくことが大切である。